「満洲国」でおきた土龍山事件を見ていくとき、単純に反日や親日で説明できない人物が出現する。彼の理念の中には反日であるか、親日であるかということより、もっと現実的な、ある種打算的ともいえる価値観で行動していたのではないかと感じる。その人物は謝文東という。
謝文東は依蘭県の県城近く、土龍山村の有力者であった。謝文東を一躍有名にしたのは一九三四年三月の日本の満洲移民団に対する武装蜂起である。謝文東が総司令となり東北民衆救国軍が組織され、その勢力は一時期三〇〇〇人 にものぼったといわれる。
その後、謝文東の部隊は四、五十人にまでになり、一九三五年三月に共産系の東北人民革命軍第三軍に連合した。その後部隊の改編らがあるが、抗日匪賊として活躍する。
しかし、一九三九年に関東軍の帰順工作に応じて「更正し満州国に忠誠を尽くすに至った」 という。そして炭鉱の把頭となり、終戦時には東安省林口県の模範村の村長をしていた。戦後の国共内戦で、中国共産党から匪賊とみなさる。最期は桂木斯で市中引き回しの上さらし首に処せられた。それが一九四六年のことである。
最初は謝文東の行動が不可解であったが、ある言葉を思い出してから頭の中の霧が晴れていった。謝文東は「馬賊」だったのではないかと思ったのである。
「馬賊」という言葉はおそらくあまり適切ではない。しかし、とても便利な言葉である。ここでは「馬賊」の定義は渡辺龍策氏の文章を引用して次のように考える。
本来の「馬賊」はたんなる賊ないし匪ではなかった。中央権力の不備と腐敗を要因として発生した民衆的自衛組織に根を下ろした武装集団だったのである。だが、この民衆自衛集団は、それ自体、前近代的なものであったがために、中国近代化の激流の中で徐々に、かつ当然に、歴史的変貌を遂げなければならなかった。
「馬賊」も「匪賊」もいっしょにしてしまっては、馬賊というものが、少なくともその縄張り内においては、仁義をまもる任侠的存在として農民たちを保衛するという、日本の侠客仁義とかなりあい通じる馬賊道というべき一面をもつことを、無視してしまうことになりかねない。
しかし残念ながら、謝文東を「馬賊」と形容する文献は見当たらなかった。謝文東の土龍山事件当時の肩書きは北満三江省依蘭県の保董である。また地主でもあった。
保董とは保甲制度という郷村の自治組織の長である。保甲制度は古くは宋代にその基礎がつくられた。満洲は清朝末期から、政府の治安維持能力がほとんど及ばない地域だった。そのため住民は「警察にも軍隊にも頼らず、自ら武装して自分の身を守る」 ことを考えた。時には匪賊ではなく警察や軍隊が掠奪を行うこともあり、そのため自治組織が異常発達した。さらには「満州の農家ではほとんど一軒に一梃の銃を持っていた」 といい、それは自衛のためだけではなく、自らも匪賊に早変わりできるようにするためだったという。
満洲馬賊(匪賊)を『満州国史各論』は七種に分けて解説している。その一つが「半農半賊(雑族)」で、「元来満洲では、自己防衛のため匪賊の来襲に対抗し武器弾薬を持っているものが多い。また保衛国のごときものもあって、そのときの環境次第で匪賊ともなり良民に帰ることもある」 と説明している。
謝文東は、はじめ保董という一村落の自衛団のリーダーだった。ではなぜ日本の開拓移民に対し武装蜂起し、三〇〇〇人もの賛同者を得たのだろうか。
土龍山事件の背景は主に三つあげられる。一つは日本人移民の開拓用地買収、二つ目は治安維持会による「武器回収」、最後は「種痘」である。
一つ目の開拓用地買収に関しては一番多く言われている事であり、劉含発氏の論文 にも書かれている。土龍山事件が起きた頃はまだ日本人移民の初期段階で、依蘭県湖南営に第二次移民団が入植して一年経っていないところだった。第二次移民団の用地買収は既耕地を71.2%含み、極めて廉価だった。地価は事件前、「熟地、荒地ならして、一垧一元」だったのが、事件後は「熟地一五、六元、荒地一元五十銭くらい」に上がったという。
二つ目の武器回収についは小林英夫氏が「日本の『満州』支配と抗日運動」という論文のなかでその重要性を説いている。つまり「武器回収」は用地買収と同等に「屯という集団の指導者・地主・富農の存在基盤の危機にかかわる問題」だったというのだ。
『満州国史』によれば、満洲国政府は一九九三年暫行保甲法を公布した。暫行保甲法は「保甲制の組織と、連坐法の適用、自衛団組織の三つから組み立てられ(中略)警察の補助的役割を果たさしめた」という。自衛団組織は「一年以上その土地に居住する一八歳より四〇歳までの男子は、公務員、不具廃疾者を除き」全員が団員となった。
この保甲制度の実施を強行したのが治安維持会である。治安維持会の最重要課題は「屯民からの武器の剥奪」 だった。また以前からある自衛団を治安維持会が改編する目的も有していたようである。
三つ目の種痘と土龍山事件の関係について詳しく論じた文献は見つからなかった。ただ、種痘に対する疑惑は当時一般的なものだったようである。次は満州国政府のペスト対策に関する記述を引用したものである。
衛生知識のない住民の間に、予防注射は日本人の謀略で、満洲人を根絶やすものであるとの流言が飛び、注射を忌避して逃亡したり、時には患者発生の際家を焼き払われるのを恐れ、患者を隠匿したりする事が多かったので、県民に対する啓蒙工作はなかなか骨の折れる事であった
三者に於いて共通しているのは、異常に発達した自治組織のそれまで誰も介入してこなかった分野に、日本の軍や資本、満州政府が介入してきたことである。その介入が、自治組織を解体する諸要素を孕んでいた事に、敏感に反応した結果の武装蜂起だったのではないだろうか。
この謝文東の武装蜂起の経過を一九三九年の帰順まで見ていこう。
まず一九三四年三月はじめ、東北民衆救国軍を組織した。九日に土龍山警察署を襲撃し、警察官二〇名を武装解除させ、十日には応援部隊の第十師団歩兵第六三連隊を壊滅させた。このとき飯塚連隊長以下十七名を殺害し、その後の関東軍の追撃は弔い合戦の様相を帯びてくる。その後、依蘭県城と第一次及び第二次移民団の入植地を包囲した。さらに五月、宝清県城を襲撃した。同じ五月に入植地の包囲は解かれた。
蜂起した当初の計画では「まず松花江岸の要衝依蘭を占拠して、順次松花江岸を制圧し、すすんで長駆北満の要衝ハルビンを衝かんとするものだった」 という。本当なら相当野心的な計画である。
東北民衆救国軍は蜂起してからちょうど一年後(一九三五年三月)には四、五〇人の部隊にまで縮小していた。この時期、趙尚志率いる東北人民革命軍第三軍と李華堂の部隊とで東北反日連合軍をつくることになった。東北人民革命軍第三軍は中共北満省委の指示を受ける軍隊であった。
毛沢東の八・一宣言をうけて、一九三六年一月に東北抗日連合軍ができた。趙尚志が総司令、李華堂が副指令、謝文東は第八軍の軍長に就任した。しかし、同年六、七月ごろ改めて三路軍編成をとった。それにより第八軍は周保中率いる第二路軍に組み込まれた。
東北抗日連合軍に謝文東を引き込んだのは趙尚志だったが、趙尚志と他の幹部との間に対立がおき、周保中とも対立した。一九三七年に趙尚志は自己批判を行い、一九三八年一月にソ連で逮捕され、一九三九年六月に「誤解」だったと釈放され満洲に帰国するが、そのときにはすべての職務が剥奪されており、やむなく再びソ連に戻った。
謝文東と李華堂が関東軍に帰順したのは趙尚志がいなくなった後であるようだ。また当時の関東軍の帰順者に対する処置はかなり寛大になってきていた。たとえば一九三六年九月の北部東辺道大討伐においては「政治匪、共匪の別なく積極的に帰順工作を行い、帰順者の更正あるいは討伐要員としてこれを活用する方針をもって臨んだ」加えて「帰順者には新品の衣服を与え、彼らの希望に応じ、帰郷するものには旅費を与え、警察官その他に就職を斡旋し、生命の絶対安全を保障した」 という。
謝文東も例に違わず、先に帰順していた赫という人物が帰順工作をした。謝文東は一九三九年三月三十一日に新京へ行き、植田軍司令官、張国務総理らに謝罪し「良民」になった事を立証したという。その後は密山炭鉱の把頭としてしばらくいた後、鶴崗炭鉱へ移った。謝文東の後に密山炭鉱の把頭になった王蔭武も帰順した「匪賊」で、帰順交渉のとき六つの条件を出したという。その六つの条件はおおよそ次のようなものだった。
① 密山炭鉱城子川採炭所に行く。
② 王蔭武を把頭にする。
③ 部下を四〇〇人連れて行く。
④ アヘンを支給する。
⑤ 賃金を月二回支給する。
⑥ アヘンや賃金は把頭が一括して労働者に手渡す。
謝文東が提示した具体的な条件は不明だが王蔭武の条件と大差はないと思われる。
梁栄勝氏の鶴崗炭鉱に関する論文は鶴崗炭鉱の労働状況を強く批判している。また「鶴崗にくれば、閻魔大王にすぐあう。軽く皮を剥ぎ取られて、命がいくつあっても足りない」という意味の歌が伝わっていたという。そして謝文東の名こそ出てこないが、把頭制度を「以華治華」(華人が華人を管理する)策略で、炭鉱労働者を虐げ、奴隷化し、統治する道具だったと書いている。
はじめに述べたように、謝文東は終戦後の国共内戦中は中国共産党の匪賊として名を馳せ、一九四六年末、処刑された。
「満州国の良民」となった謝文東がどこまで親日になったのかよく分からない。しかし、前近代の地主でかつ保董であった謝文東にとって、共産主義は日本帝国主義よりも脅威に映ったのではないだろうか。少なくとも一九三九年の時点で謝文東と部下たちの安全や地位、思想を守るのは関東軍の帰順工作のほうであったことに間違いはないであろう。
バリトン・ムーアは、英米の中産階級の民主主義、日独伊のファシズム、中ソの共産主義はどれも近代化の結果であるという。
謝文東ははじめ日本の近代化に反抗し、同じ抗日を唱える共産党に共鳴した。しかし、やがて共産党がさらに強力に近代化を進め前近代的なものを消していく勢力と気づいたのではないだろうか。それが一九三九年の転身の原因と考える。またこの仮説が謝文東を馬賊と考えた所以である。